先週に引きつづき、セレクトショップであり、MHIやIMAGINARY FOUNDATIONの代理店でもあるダイスアンドダイスさんの20周年という偉業を記念してのインタビュー後半をお届けします。
◎先週は、ダイスアンドダイスさんがスタートした当時のお話をうかがいました。ダイスさんは鬼塚さんと木下社長、そして信國さんの3人で立ち上げられ、アナーキック・アジャストメントがストリートカルチャーにリンクしたブランドを取り扱うきっかけになったというお話でした。
そして若き頃の信國さんがアンテナとして鋭いお仕事をされたということでしたが、その後はどうされたのですか。
鬼塚:まだ当時彼は二十歳そこそこだったと思いますが、デザイナーになる事を志し、服作りの勉強をしたいということで海外留学をすることになりました。
最初は知り合いのいるロサンゼルスに渡りいろいろと試行錯誤をしてすこし遠回りはしたみたいですが、その後ヨーロッパに渡りパリではあのジョン・ガリアーノのもとでアシスタントを務めていました。
その後、ロンドンのセントマーチンアートスクールを主席で卒業し、当時のロンドンでは彼のショーが地元の新聞に大きく掲載されかなり話題になった様です。帰国後は独立して自身のブランドTAISHI NOBUKUNIを起こし、またTAKEO KIKUCHIからメインデザイナーとしての依頼を受け、つい最近まで兼任していたようです。
<◎すごいですね。ストリートカルチャーからアート、ハイファッションまでも吸収して大きく開花していかれた方だったんですね。
ところでダイスさんが扱ってこられたブランドというと他にはどんなものがあるのですか。
鬼塚:主にニューヨークのグラフィック系のブラントやロサンゼルス界隈のスケートブランド、そしてロンドンのMHIやYMCということになります。フューチュラはもうかれこれ15年くらいの付き合いになりますし、フューチュラが在籍していたGFSやBSF、PROJECT-DRAGONなどもやっていました。もっとも彼を全国的に有名にしたのは、その後NIGOさんやSKATE-THINGさんたちが彼を日本のメディアに大きく紹介してくれたことが大きいと思います。
その他SUBWARE、RECON、あとSUPREMEも最初はうちがやっていました。他にSTUSSYは今もやっていますしSSURやX-LARGE、FUCTもやっていました。
◎そうそうたるラインナップであり、90年代のストリートカルチャーをアパレルの面から先端から刺激し続けてきた流れといえますね。そして21世紀に入ってよりアートな方向にディレクションが向いてこられたのかも知れませんね。
ブランドをセレクトしてこられた上での共通項みたいなものはあるのですか。
鬼塚:その時その時に自分達がカッコいい!と思ったということなんでしょうね。先端でなきゃいけないという意識はさらさらないんですが、単純に自分達が感じたカッコいいものをお客様に紹介したい!という気持ちでしかなかったと思いますし、その結果、流れが後からついてくるという部分ではやりたい事をやってこられたのだと思います。
また、取り扱って頂いているショップの方々から「ダイスさんの服は身内や他のショップの人が買うんだよね?。」と言われることが多いんですが、これも本当にに有り難く、やりがいに感じています。
◎ダイスアンドダイスという名前はどんな意味を込めているのですか。
鬼塚:時代が変わるごとに新たにサイコロを振っていこう。そしてカッコいいことをやり続けていこうというという気持ちを込めました。約半年間、3人でアアでも無いコウでも無いと悩んで煮詰まっていた時に、木下がローリングストーンズの"Tumbling-Dice"をもじって"◯◯◯ダイス"や"ダイス◯◯◯"という感じにしたい。というヒントをくれたんです。僕も信國もそれにピンときてそれからあっという間に“ダイスアンドダイス”という名前にに決まりました。その時は単純にゴロや響きのかっこよさで決めたので特に意味は有りませんでした。ですので先に言いました“時代が変わるごとにサイコロを云々”ということは後からこじつけたことですね(笑)。
今まで時代ごとに新たな気持ちでサイコロを振る場面も何度かありました。しかし、サイコロは振ってもそう簡単には波に乗れないというのが現実ですから、そういう部分ではスタッフ一丸となって結果に見合うだけの努力はしてきたという自負はあります。
◎なるほどですね、現在の華々しい成功を裏づける重みのある一言をいただけてよかったです。今回お話をうかがって予想以上にコネクテッドとしては流れを汲んでいる部分があることがわかってよかったですし、何よりも継続することの素晴らしさをお店やお話から組ませていただきました。リスペクトです。今日は深夜まで本当にありがとうございました。
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