昨日は福岡にいき、セレクトショップのダイスアンドダイスさんにお邪魔しました。
ダイスアンドダイスさんは、初期のアナーキックアジャストメントにはじまり、数多くのエッジのきいたブランドを日本に紹介してきており、現在コネクテッドではイマジナリーファンデーションやMHIなどでお世話になっている関係です。
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そしてなんと先週創立20周年(!!)を迎えられました。そこでプロデューサーの鬼塚さんに記念インタビューをお願いしました。
◎鬼塚さん、まずはダイスアンドダイス20周年おめでとうございます。
先週は、20周年記念イベントを開催されたそうですが、どんなイベントだったのか教えていただけますか。
-福岡は赤坂のマゼンダという普段はレストランをやっている雰囲気のいい会場でNYのフューチュラのライブペインティングをフィーチャーしたDJイベントとして開催しました。ショップスタッフなどがDJで場を盛り上げていき、フューチュラのライブでは1辺1mのキューブ状のオブジェを2つ制作して、その面に立体的にペイントしていくライブをやりました。ライブ後もお客さんが来続けておかげさまでかなりの大盛況になりましたよ。
◎現在ではダイスさんはどんな展開をしてらっしゃるんですか。
-ショップとしてはダイスアンドダイスのメンズとレディス、そしてフューチュラとステューシーの4件をやっています。
フューチュラに関しては、15年くらいのお付き合いになるのですが、彼がグラフィックを発案しそれをわれわれがウエアに落とし込むという共同作業でブランドを運営しています。
代理店としてはブランドが多すぎてちょっと説明しきれないのですが、コネクテッドさんとのかかわりにおいてはMHIやイマジナリーファンデーションを扱っています。
◎すごい展開ですね。ところで鬼塚さんは発起人のお一人と伺っていますが、ダイスアンドダイスはいつごろどんな雰囲気の中でスタートしたのですか。
-スタートしたのは1988年の9月9日です。当時は時代的には日本でヒップホップカルチャーがようやく盛り上がってきたばかりのときで、ランDMCやビースティーボーイズのファーストアルバムが大ヒットした頃でした。
まだクラブはそれほど発達してなくてディスコだった時代だったので、音楽好きイコールロック好きを意味していました。
僕と社長はその頃同じ洋服屋で働いていた仲だったのですが、まず社長がそこの社長と文化的な価値観が違いすぎるということで辞め、その後僕も迷った挙句やめました。
当時は僕は20才そこそこで社長も30ちょっとくらいでしたが、一緒に洋服店を立ち上げようということになり、その時お客さんで遊びに来ていた信国君という高校生の子が自分も参加させてほしいといってきました。
で、びっくりしたのですが彼は九州一の進学校の成績ナンバーワンの子なのに、進学も高校をやめて参加しいたいというのです。
学校側も心配してやめないように説得に入ったそうですが、結局本人の意志が固いことから僕らも納得して3人で始めることになったのが最初です。
でも僕自身もやりたいことがはっきりしてたわけでもなく、何も考えてなかったですよ、ホントに(笑)。。
◎おもしろいスタートですね。それで当時はどんな洋服を扱っていたのですか。
-僕達が最初に売っていたのは、上から下まで買うと30万とか越えちゃうようないわゆるいい服。トラディショナルとかアイビーリーグとかで国内仕入のみだったんです。
でも最初に信国君が藤原ヒロシにはまりだしてスケートやスノーボードにはまり、アメリカのスケートブランドなんかをいれたいといいだしました。でも僕ら2人は既にこの世界での仕事経験がそれなりにあったのですぐには変われなくて戸惑ったのですが、実際にアメリカにいって様子をみてみると僕らが売っていたリーバイスやレッドウイングなんかは誰も身につけてなくて、みんなスケートブランドのトレーナーなんかを着てるんだということがわかって、じゃアメリカに買い付けに行こうということなりました。そして買い付け担当に抜擢されたのがまだ10代の信国君だったんです。
そこで彼は売れそうな洋服をいくばくか買ってくるだけでよかったのですが、途方もなくとんでもないことをしでかして烈火のごとく社長の怒りを買うことになりました。
彼がやったことというのは、サンフランシスコのブランド、アナーキックアジャストメントの日本での代理店契約を独占で結ばせてほしいという交渉をもちかけ、当時の僕らにしてはとんでもない契約金を言い渡されて帰ってきたのです。
◎ええーっ!?
-社長はカンカンだったのですが、いざ相談された僕はなきながら訴える信国君の顔を見てるうちに何かあるんじゃないかと思うようになり、やってみましょうよと返して話がまとまり、何とか契約金を工面してそれまでの小売のみのから代理店としての卸しもはじめるようになっていったんです。
そしてお店は売るものががらりと変わったわけですから、当然99パーセントお客さんはいなくなりましたが、それでも若くてちょっと不良っぽいお客さんがついてくるのにはそんなに時間がかかりませんでした。
そこからようやく少し自信もついてきてアメリカのいろいろなスケートブランドの服を買い付けに行くようになっていったんです。
◎うわーすごいですね。アナーキックアジャストメントが転機だったんですか。ウチもその後のアナーキックアジャストメントを日本で手がけたのが洋服店として独立したきっかけだったんですよ。びっくりしました。ぜひもっといろいろ教えてください。 。。
ということでですね。その後話は深夜に及びましてですね。まだまだダイスさんのことを伝えきれていないので、この続きは次週に持ち越させていただきたいと思います。
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